難民移住移動者委員会担当司祭 ホルヘ・ソーサ
自由についてのテーマは、非常に魅力的でありながら複雑です。この文章に興味を持つ読者を予測するのは難しいかもしれません。
このテーマに取り組むために、私は教会の信者に「自由とは何か」を尋ねました。彼女は、「自分の足に合わない靴を履いて半日を歩くのは難しいです。まして一生などとんでもない!」と言いました。私は笑いました。しかし、同時に、自由を持たない人々の痛みについて深く考えさせられました。
自由について語ることは、服従や奴隷制について語ることでもあります。今日では奴隷制について話すことは一般的ではなく、自由を失うことが何を意味するのか想像するのは難しいです。
しかし、19世紀末から20世紀初頭にかけての衝撃的な写真が今も残っています。それらには、ベルギー王・レオポルド2世の支配下で鎖につながれたコンゴの人々が写っています。アフリカの大人や子どもたちは、十分なゴムを集められなかった罰として手を切断されました。
*ベルギー王レオポルド2世戯画(1904年)
今日でも、様々な形態の服従が存在しています。その一つが人身売買ですが、それは目に見えないため存在しないかのように思われます。
植民地時代のコンゴの写真に戻ると、助けを求めて言葉を発せずに叫んでいるように見える奴隷となった子どもたちの目線に心を打たれます。そして過去と現在の自由を奪われたすべての人々について考えさせられます。それは利己的な社会の重荷を背負う無実の人々の叫びだと言えるでしょう。
神が彼らを助けなかった理由を考えることは難しいです。ある時、強制収容所についての講演を聞き、「神はどこにいたのか?」という質問に対して、「神は苦しむ者たちと共にいた、小さき者たちと共にいた」という答えがありました。キリスト、十字架につけられた者は、この社会の最も弱い立場にいる人々と共に存在しています。
親愛なる読者の皆様、ここまでお読みいただきありがとうございます。
どうか、私たちの社会の罪を背負っている無実の人々のために、アヴェ・マリアの祈りを捧げてください。真の自由とは、私たちが愛されていること、尊厳を持っていること、そして神の子であることを発見することにあります。