• カトリック大阪高松大司教区 社会活動センター・シナピス

学習会「看る時、看とられる時 ―介護の現場の体験よりー」に参加して

六甲教会   井川  伸子

9月22日(日)、カトリック六甲教会のイグナチオホールで、「看る時、看とられる時」というテーマで、当教会の社会活動部主催の学習会が行われました。多くの人に関心があるテーマでしたので、ホールは160名の来場者で埋め尽くされました。

講師は、上智学院カトリック・イエズス会センターに勤務されている山内 保憲神父さんで、昨年10月まで6年間「イエズス会ロヨラハウス」という、言わばイエズス会神父たちの老人ホームのような施設の修道院で、介護のお世話をされてこられました。

1963年には100歳以上が153人しかいなかったのに、高齢化社会になり、2024年には9万人に達しているそうです。ロヨラハウスでの平均年齢が92歳という共同体の中で、当時40代であった山内神父さんが介護のお仕事をされるのは並大抵のことではありませんでした。

認知症が進み、怒りっぽくなる神父さんに対して扱い方の難しさ、病院に連れて行き、待合室で長いこと待たされ、帰ってくるまでのほぼ半日以上の付き添い、末期に延命治療のことで、本人と家族、そして医者とのやりとりを目の当たりにしての難しい決断のやりとりの現場体験、夕方になると修道院をフラッと飛び出してしまう高齢神父への対応・・・・など数多くのご苦労があったにもかかわらず、ご自分の苦労を超越して、いとも楽しそうに会場に笑いの渦が湧くほど、ユーモア溢れたお話をされ、「話術の才能に富んだ神父さんだ」と感じました。

ロヨラハウスの神父さんたちは、かつては、偉大な教授、偉大な院長、才能あふれ、輝かしい風格に恵まれ、人々から慕われて大切にされてきましたが、それが今、身体も衰え、頭もボケ始め、「見るべき影もなくなっていく」。

私たちもいずれは老いていき、昔の若い時のように健康で輝いて何でもできるわけではありません。小さくなっていく自分のみじめな姿、暗闇に入って行くと思われますが、しかし、そこに、まさに惨めな姿で私たちのために十字架上で命を捨ててくださった救い主イエス・キリストの姿が現れ、小さくなった私たちはイエスと共に歩み、神に近づいているのだということを山内神父さんの話から学びました。

聖書にも「あなたたちは世の光、地の塩である」と書かれていますが、この意味が本当に分かったような気がします。光は周りの人々を明るく照らし、最後には燃え尽きて芯になって消えていく・・・まるで、私たちの人生のように。地の塩も料理を引き立てるために少しだけでも役に立ち、やがて溶けて消えていく。まさに小さくなって消えていく私たちの人生のようです。しかし、「消えていく」ということは、永遠の命への希望である、ということをこの学習会から学びました。

私たちは、「地上の眼差し」で見る時、健康でお金があって満足して暮らしたいという順調な時が続くことを求めますが、私たちは全員老いていきます。何もかも失って絶望の逆境に陥った時にこそ、「信仰の眼差し」でイエスが歩まれた時を共に歩んでいるのだということを、学習会から学びました。

最後に山内神父さんは、介護体験から、介護される人に対して、「この人は病気になっているからもうダメだ!」と決めつけずに、ありのままを見つめ、寄り添い、その人の心の中に入り感じとり、共に怒ったり、笑ったりしてあげることも大切なのだなあ、という発想にたどり着いたそうです。 高齢化社会が進み、介護する人も介護される人も共にだんだん増えつつある社会ですが、この学習会を通じて、経済面でも、健康面でも順調な人生を歩んでいるかもしれない人々も、介護されて小さくなっていく人々の中に、光と塩を見いだし、互いに「信仰の眼差し」で歩んでいけたら素晴らしい社会になっていくのではないかと思いました。

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