• カトリック大阪高松大司教区 社会活動センター・シナピス

『見よ、それはきわめてよかった』(梅﨑神父)

クラレチアン宣教会 梅﨑隆一


中学生の理科の時間、「紙を半分に切って、更に半分に切っていくと、ある部分で切ることができなくなるところまで行き着く。これを分子と言う。更に分子は原子に分けられる」と教えられました。今では中性子にまで行き着き、それ以上は小さくならないそうです。


紙だけではなくこの世の全ての物質は細かく分けると同じ物質によって造られていることが知られています。机、石、動物、人間も物質的に考えれば同じであると言えます。


しかし、同じ物質によって構成されているからと言って、机を破壊することと、人間を殺すことは同じではありません。科学の限界の一つは価値付けができない事です。そのような現象については道徳や倫理によって判断しなければなりません。


道徳と倫理の目的は、「人が善く生きるとは何か?」を探求することです。より高い価値のある生き方を選び取るときに人間らしく生きることができると言えます。


また倫理、道徳がしっかりしていなければ、まともな法を立案することはできません。人の支配ではなく、法の支配による法治国家をより良いものにするためには、より善く生きようとする人間の決断が不可欠です。


そして残念ながら、法に伴う罰則がなければ、国や企業、個人の非倫理的行為を止められないことを、私たちは日々体験しています。それは国連が戦争を止められない原因の一つでもあります。


日本カトリック司教団のメッセージ『見よ、それはきわめてよかった』には共通善、倫理、道徳という言葉が何度も出てきます。「より善く生きる事」を探求することはキリスト者にとって大切な使命であると言えます。


テヤール・ド・シャルダンは、被造物が同じ物質によって構成されているのだから、人の中に聖霊が住まわれることは、この世界にとって大きな喜びであると言われます。人がキリストと同じ神の子どもになるという救いは、この世界の救いに大いに関係のある出来事です。


生きた神殿の中に聖霊が住むことによって、ミサの第四奉献文を実現し、またそこから流れ出る水は命の果実を実らせ、民の病を癒す薬用の葉をもたらします。


「NICE 1」で指摘された「信仰と生活の遊離」は、今でも私たちの大きな課題であり、環境問題もその中に含まれています。

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