• カトリック大阪高松大司教区 社会活動センター・シナピス

「苦しむ人々の声に耳を傾け応えていこう」本田哲郎神父の講演

2024年5月25日(土)、大阪高松大司教区本部で「社会の福音化をめざすキリスト者のつどい」が開かれました。そのなかでおこなわれた本田哲郎神父(フランシスコ会、釜ヶ崎「ふるさとの家」在住)の講演の要旨をお伝えします。

今日のテーマは、「苦しむ人って?」、「耳を傾けるとは?」「どのように応えていくのか?」。   

私は台湾で生まれ、小学校まで奄美大島にいた。その後、フランシスコ会では6年ごとに異動があり、転々としたが、釜ヶ崎に来て大阪教区のもとで働くようになって40年近くになった、西成区萩之茶屋は最高の異動先で嬉しい。教会で学ぶよりも、黙想会に出るよりも、素晴らしい巡礼をするよりも、おじさんたちと談笑し学ぶことがイエス様と一緒になるような気がする。教会の中では互いに飾る時があるが、釜ヶ崎はごまかしやウソは嫌いで良い恰好は通用しない。「道、真理、命」(ヨハネ14・6)の、「真理」というのは、ごまかしはないということだ。

先日、カトリック教会で「博士号」をとられ、シナピスの前身となる「平和の手」という運動を起こされた太田道子さん(旧約聖書の専門家)が亡くなられた。(編集:2024年1月2日91歳でご帰天)。彼女は、ガザ、パレスチナに対するイスラエルの攻撃について苦しんでいた。

第二バチカン公会議(1962~65)のメインメッセージは「貧しい人を優先する」ということ。キリストの教えは「貧しい人々を優先的に選ぶ」ということで、いま大事にすべきことはキリストのメッセージ。司教たちには「あのメッセージを忘れるなよ」と言ってほしい。イエスさんが大事にしていることを、ふだんの典礼の中で表現してほしい。太田道子さんは、「貧しい人、抑圧された人」に優先的に関わろうとしていなかった教会を残念がっていただろう。

第二バチカン公会議の、「貧しい人々を優先する」とはどういうことだろう?

「物を持っていく、何か譲ってあげよう」というのは上から目線だ。これは間違い。もらわなくていいよ!「貧しい人々を優先する」とは、彼らに物やお金を分けるのではない。そう思い込んでいるから、貧しい人を紹介すると嫌な顔をする。

彼らの側に立つということは、同じになることではない。西成に行ったり来たりすることではない。あなたが野宿して何になる? 自ら貧しさごっこをする人は抑圧されていない。中には好きで野宿している人もいる。野宿しなくてもいいようにするのがあなたたちの役目でしょう。

四旬節の時に、貧しさを体験するために断食する人がいる。一食抜いただけで貧しさを体験する。イエスさんは貧しいことは嫌いです。

労働者を連れてぶどう畑に行った。夕方になっても、まだ仕事をしないでたたずんでいる人がいた。「誰も雇ってくれなかったのです」「誰も畑に連れて行ってくれなかった」と。その時間からでも働くと、1日分の仕事のお金を払った。これはイエスの体験からではないか。イエスも働きたかった。

ヨゼフさんは大工ではなかった。ギリシャ語ではラクトン(石を砕く人)で石切・石工。もしも大工なら、財力があり小さな村で有名人だろう。しかし、ヨゼフさんは、大工が使う石を刻む人、石工ブロックを造る人だった。

「彼らは、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2・4)

やられたらやられっぱなしで、ニコニコしていなさいということだろうか?パレスチナで武器のない子ども達が、石を拾って兵隊たちに石を投げるのはわかる。釜ヶ崎の暴動で、機動隊と労働者がぶつかったとき、労働者は大きめの石を拾っては投げた。イエスが民衆に襲われて連れていかれる時、ペトロが腰のナイフを出して民衆の耳を切り落とした。イエスは「もうそれで良い」と言った。「そこまでで止めておけ」と。イエスも抵抗を考えておられた。無防備で疲れ果てた最後に、「私の神よ、なぜ私を見捨てたのか」と嘆いた。弟子は、最後に立ち上がってこの人が新たな王国を立ち上げてくれると思ったのに、負けを宣言した。にもかかわらず、イエスは小さな抵抗「そこまでにしておけ」と言った。

「負けた方が良い」という説明はちょっと違う。パレスチナで石を投げ直す子ども達の気持ちをわかっていない。「負けるが勝ち」ではない。「憲法9条」のことを論じる時、「あれはアメリカ人が作ったんだろ!」というが「聖書に基づいて書いた」となかなか言わない・・・。

洗礼を必要不可欠なものと思っていないだろうか?水をかけてもらったから特別な人になったと錯覚する人がいる。洗礼を受けていることで上から目線になっていないだろうか?洗礼を受けていなくても、すごいクリスチャンがいることに気づいてほしい。バプテスマ(洗礼)は「身を沈めること」で、身を清める儀式ではない。それぞれの生活の中での「洗礼」というのは、身を沈めて立ち上がるということ。「自分に死ぬ、自分のわがままを殺す」ということ。洗礼は「埋葬」、「自分が死ぬこと」だ。イエスという方は、「聖霊の火に身を沈めて洗礼を授けます」。そういう意味では、西成に来ている人はみんな洗礼を受けている。

「洗礼」は、「洗う」という言葉を使ったために「清められた」と間違えられる。イエスがヨハネから洗礼を受けたヨルダン川はどのような場所か?ヨルダン川の海抜はマイナス200m~300mという低い場所。ガリラヤ湖は海抜より下で、死海は海抜マイナス400mの低い場所にある。洗礼というのは、「低くする」ということ。ヨルダン川は低い場所にあるので、きれいな水ではなく汚いものがたまっている。洗礼を受けるというのは、「泥水をかぶる覚悟をする」ということだ。

最後に、教会の司牧でお金を取るのをやめませんか?「見返り」とは何でしょう?パウロのことばから、「福音による特権を使わずに済んでいること」だ。教会で使う「聖なる者たち」という言葉は、司祭や助祭とは違い、貧しく小さくされている人のこと。痛みに心を動かすというのは、計算があって動くのではなく、突き動かされて動くことだ。

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