• カトリック大阪高松大司教区 社会活動センター

池田 雄一神父に聞く

「苦しい人を助ける仕事」として司祭を選んだという池田雄一神父(83)は、今年で司祭生活54年(1970年7月叙階)を迎えています。
長年、三重県の「アガペの家」で祈りと農作業に従事され、元気な頃は、阪神・淡路大震災や東日本の被災地に足を運び、ボランティア活動をされました。
現在、高齢者施設・ドムスガラシアで透析を受けながら生活しておられます。
この度、現在の思いを率直に語っていただきました。
(取材編集・山田直保子)


“苦しみと悲しみの体験を伝えること”

この施設は90歳以上の人たちが多くいますが、体調や食欲がなく食べきれないと思う時、必ず言う言葉は「残していいですか?」です。
残すことに罪悪感があるからです。
戦後の食糧事情が悪い時に生きた人たちです。
成長の過程で一番果敢な時期に、十分食べ物がなかった。
だから今自分が食べられる物を一つも残してはいけないと思っています。
現代では通じない世界なんでしょう。
やがて我々も消えていってしまう存在だけど、そういう部分がどう生かされるべきかと思います。

わたしの戦争体験

幼少期に戦争を体験した人達には共通なものが何かあります。
例えば、防空壕の中で過ごした体験。今の時代には遠い話かもしれないけれど、あれが現実だったんですね。
僕も子どもだった頃、空襲を体験しました。
B29がやってきて、大量の爆弾を落とすんですね。
火の玉の形をしたものが無数に落ちてくる。
まさに、雨あられというんでしょうか、音もしっかり覚えています。
ザーッと大雨がふるような形で爆弾が落ちていく。焼夷弾が真っ赤な塊になってそれが押し寄せてくる。
私は3歳の時、神戸の東灘にいましたが、明石の山の中へ疎開しました。50㎞あると思います。
父は戦場にいってましたから、母と、ポリオに感染して生まれた時から手足が不自由な叔父とおばあさんが大八車に乗っていたので、私は仕方なく歩かされました。

決して忘れてはならない事

今、ウクライナの子どもたちや老人たちが砲撃にさらされている。
それもAI武器を使った、いわゆる昔のロボット戦争です。
自分の手を下さず、そういった機械化されたものによって人を殺す。
核を用いる大量破壊兵器もそのたぐいなんでしょう。
人間の苦しみ悲しみが感じられない世界へ移りつつある。
これは非常に悲しい。
我々は沖縄戦というものは映像でしか知らないけど、40万人が亡くなった。
その人たちは実際に砲弾にさらされ、火炎放射器で焼かれて死んでいった。
そういう苦しみや悲しみの記憶が戦後79年かなり遠のいていったように感じます。
自然災害もそうです。
たとえば阪神・淡路大震災からもう29年経ったんですね。
その時の悲しみを忘れてはいけない。
私は東日本大震災後、石巻に行ったんですけどね、凄まじかった。
阪神・淡路大震災の時は家が潰された。
でも津波の場合は根こそぎ無くなるんですね。残ったのは土台だけ。
肉親を亡くし、そして家を無くしていった多くの人はそこにたたずんで深い悲しみを味わったと思う。
でもそういう事もだんだん記憶が薄れ、忘れられていくのですね。

今わたしに出来ること

今回の能登半島地震でも、家を無くした人たちがいる。
生きる糧を失い、生きがいである仕事を無くし、よりどころを無くしていく、そういう苦しみはどこまで共有できるか。
自分としては何にもできない。
体一つ動かせない。そんな時にウクライナから逃れてきたマキシム君のことを知って支援をしようと思ったのです。(※)
亡くなった人、家を失った人のために祈っていますけど、私自身どこまで真剣に祈れているのか・・・。
人間は生きれば生きるだけ、悲しい部分が積み重なっていく。
それは体験者が語ることでしか知る縁(よすが)がないんです。
それをどこまで表現できるか難しい。
私自身はこれまでのことを伝えるため、本を3冊書いたんです。
その後、ここに来たんです。
でも、もう自分はこれからいっさい手足を使っては何もできない人間になっていく・・・。
最初に話した90歳以上のあの人たちが体験した貴重なものがある。
でも、ある人はもう“認知”(認知症)がきている。
夜に「誰か来て!」「助けて!」と大きな声を上げる。
過去の体験から来るのかもしれない。まさに、人間の叫びのように聞こえました。
もちろん、そういう人たちを材料にしてはいけないとは思うけど、その真実を人に知ってもらいたいと思っています。

(※)池田神父さんは、ウクライナ避難民のマキシム君が日本の大学に進学できるように、
自分の著書を贈呈した人たちに呼びかけて、寄付金を集めました。

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マキシム君と池田 雄一神父

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