• カトリック大阪高松大司教区 社会活動センター・シナピス

“戦争を生きた人”から私たちが学ぶべきこと

文:嶋田奈々 絵:有谷絢

 戦後79年を迎える2024年6月23日。私は沖縄で祈っていました。コロナ前は毎年8月6日に合わせて中高生を引率し広島巡礼を行い、原爆の悲惨さと平和の尊さについて学び考える活動を教区の青年有志で行ってきました。コロナウイルスの流行により広島巡礼を行うことが難しくなりましたが、流行が少し落ち着いたタイミングをみて青年のみで長崎巡礼を行い、戦争・原爆の悲惨さと平和の尊さを考えることを続けていました。今年は沖縄に行き、沖縄戦について学ぶことができました。私が今まで学び・考えたことを皆さんにも共有し、一緒に平和を作っていけたらと思います。

 2日間で様々な所を周りましたが、特に印象に残っているのはガマ(自然にできた洞窟)に入ったことと沖縄全戦没者追悼式の様子です。 

 ガマは南城市にある糸数アブチラガマという所に行きました。ここは全長270mのガマで、戦時中、当初は住民の避難場所でしたが、日本軍の倉庫などとして使われ、戦場が南下するにつれ陸軍病院の役割も果たしました。ガマの中は見学用に整備などはされていないため足元が悪く、光もほとんど入ってきません。懐中電灯を消すと真っ暗で何も見えず、恐怖すら感じる場所でした。ガマの奥のスペースは負傷し脳症になった兵士を収容していたようです。そこから出ることは許されず亡くなっていったと聞いた時には、鳥肌がたち心臓が締め付けられました。この暗闇で一生を終える恐怖は計り知れません。

ガマの絵

<タイトル『いや〜ここで3ヶ月無理でしょ。貝になりたいという表現わかるわ〜』>

 23日の沖縄全戦没者追悼式は糸満市にある平和祈念公園で行われました。追悼式は“静か”という印象を強く受けました。広島での平和記念式典は街の中心地ということもあると思いますが黙祷の時でさえ、普段通りの生活をする人、デモ隊などの何かを訴える音で溢れています。戦後しばらくは電車やバスは8時15分には止まって黙祷していた、という話を聞いたことがありますが、現在は普段通りに動いています。沖縄の追悼式の場所は街の中心地ではなく、会場である平和祈念公園は追悼式当日、一般車は両立ち入り禁止になっており、とても“静か”な式でした。周りで様々なことを訴えている人たちの声も黙祷の際は会場内には聞こえなくなり、皆一緒に祈っている感覚になりました。平和祈念公園内にある平和の礎(いしじ)には国籍・軍人・民間人の区別なく沖縄戦で亡くなられた全ての人の名前を刻み、世界の恒久平和を願い建設されたそうです。国内外問わず、亡くなられた方全ての名前が母国語で刻まれており、この戦争は被害者・加害者ではなく、一人一人の尊い命が奪われた悲惨なものだと訴えられていると感じました。余談ですが、親族の名前の前にシートを敷いて家族でお弁当を食べている姿がありました。沖縄らしさが感じられ、これも印象に残っています。

<沖縄全戦没者追悼式が行われた糸満市にある平和祈念公園からの景色>

 今春、祖母が帰天しました。96歳でした。祖母との思い出は楽しかったことで溢れていますが、同じように印象に残っているのは戦争の話でした。「あの当時は竹やり訓練しろってゆうてな。アメリカは飛行機で来るのに竹やりなんかで勝てるわけないわ」とまるで笑い話をするかのように話したり、「アメリカの飛行機が頭の上に飛んできて銃を撃って来るんや。急いで道の下に隠れてな。すぐ隣をバーっと銃弾が横切って、あれは本当に恐ろしくて」と昨日のことのように話したりしました。祖父母揃って聞いてもいないのに戦争の話を私に話していましたが、私はこの話を聞くのが嫌いでした。怖い話ですし、そもそも“昔話”だと子どもの頃は感じていたからだと思います。でもそれは“昔話”なんかではない、と最近強く思います。今、私の周りには聞いてもいないのに戦争の話をする人はいなくなりました。それどころか戦争体験や被爆者証言を聞こうと思っても聞くことができない時代がすぐそこにきています。戦争を体験した人が必死に伝えてきたあの悲惨な戦争。風化させず、次の時代に繋いでいくことが、まず私たちがしなければならないことだと思います。祖母のように“戦争を生きた人”に私たちがならないように、世界中から“戦争を生きている人”がいなくなるように、私たちは過去を学び続け、これからについて考えなければならないと強く感じます。“過ち”を繰り返さないために。

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