日本の司教団は、第二バチカン公会議の精神に沿って、教会が今の日本の社会にとってさらに意味のあるものとなる道を探るために、1970年代初頭より司教団の活動を刷新する作業を始めました。
それは具体的な形となって17年後のNICEに現れることになります。
≪カリタス運動≫
特筆すべきは、「思いついたらそれに向かって突進していく情熱と使命感」にあふれたライムンド・チネカ神父(フランシスコ会・写真)の存在です。
「関西いのちの電話開局」、釜ヶ崎での「老人食堂」や「こどもの広場」など、多くの信徒がチネカ神父とともに、活動の場を広げていきました。
このような活動が、教区でボランティア活動を根付かせようという思いにつながり、「カリタス大阪」の立ち上げにつながりました。
この「カリタス運動」が、1975年に日本に漂着したインドシナ難民の受け入れの土台となりました。
インドシナ難民の受け入れについては、カトリック教会は日本政府よりも動きが早く、チネカ神父やハリー神父(淳心会)など欧米の宣教師がけん引役となり、難民と各地域とをつなげる重要な役割を果たしました。
≪釜ヶ崎の仲間と連帯する≫
労働者の街・釜ヶ崎では、古くから「ひとの命」を大切にする運動が、労働者を中心に続けられてきました。
釜ヶ崎で様々な活動をしていたキリスト者も、1970年代には、労働者に連帯するために「キリスト教協友会」を結成。
それは、「宣教のためではなく、労働者を中心に、労働者とともに働く」というテーマを明確にして、「人を人として」をスローガンにしています。
本田哲郎神父が長く施設長を務めているフランシスコ会の「ふるさとの家」をはじめ、暁光会(エマウス運動)、また各修道会がエキュメニカルにつながり、今に至っています。
≪全小教区に設置された「福祉委員会」≫
ベトナム戦争によって多く生じたインドシナ難民が日本に漂着した1975年以来、大阪大司教区ではインドシナ難民の支援から始まった「カリタス大阪」を中心に、全小教区に「福祉委員会」が設置され、貧しい立場に置かれた人々への援助活動が積極的に行われました。
≪平和をつくる人になるための実践を模索する80年代≫
1981年の教皇ヨハネ・パウロ二世の来日を受けて、翌1982年に日本カトリック教会は8月6日から8月15日までを「日本カトリック平和旬間」と定め、毎年「平和祈願ミサ」を行ない、平和をつくる人となる決意の姿勢が示されました。
社会にコミットする教会の具体的な取り組みとして忘れてはならないのが、「指紋押捺問題」への取り組みでした。
これについて当時の安田久雄大司教は、「教会が日本の入管法の抜本的改正に取り組むのは、この法が日本国において弱い立場に置かれる人々の人権と尊厳を傷つけているからだ」と明言し、1985年よりプロテスタント教会とともにキリスト者として関わる意義を示しました。
在日韓国・朝鮮人とその支援者から始まった指紋押捺反対の大きなうねりの中で、シスター マリア・コラレス(聖母被昇天修道会)など、キリスト者も主体的に指紋押捺を拒否して連帯を表明。
やがて指紋押捺制度廃止が実現しました。
≪大きな転換期 NICE(福音宣教推進全国会議)≫
こうした社会に開かれた教会を具体化する大きな転換期は、1987年のNICE(福音宣教推進全国会議)でした。
第一回NICEは、「信仰と現実の生活、教会と社会が遊離することに気づき、それに打ち勝つため社会に開かれ、社会とともに歩む教会になろう」と決心するものでした。
これを受けて大阪教区では「大阪教区の全員・全組織・全活動がさらに福音化され宣教に向かう出発点になってこそ意義あるものとなる」として、組織改編に向けた準備が進められました。
1988年に「日本カトリック正義と平和協議会」の全国大会が大阪で開かれた際には、大阪教区から500人を超える参加があり、翌1989年に大阪教区「正義と平和」が発足する運びとなりました。
≪湾岸戦争と「平和の手」≫
1991年に湾岸戦争が起こったとき、日本政府は自衛隊機で戦争避難民を輸送することによって、事実上自衛隊の戦争加担に足を踏み入れようとしました。
何とか止めたいと知恵を絞った末に、松浦悟郎神父(現・名古屋教区司教)などが「クウェートの戦争避難民を自衛隊機ではなく民間機で安全な国へ送迎しよう」と代替案を思いつき、松浦神父が中央協議会の事務局次長職にあった神林宏和神父に「これを日本カトリック教会の運動にしてはどうか」と相談しました。
その結果、チャレンジすることとなり、大阪教区発で呼びかけました。
この「民間機チャーター」募金運動はたちまち全国に広がり、2か月足らずで2億8千万円を超える額が集まり、この支援金で民間機を2機調達するという大きな実りをもたらしました。
民衆の手で日本国が戦争に加担するのを未然に防ぐことを実現したのです。
まさに平和をつくる具体的な社会貢献として、大阪大司教区社会活動の歴史に刻まれる運動となりました。
この運動の成果を受けて、翌92年には大阪教区「正義と平和」協議会とカリタス大阪が中心となって「信仰や宗教などの違いを超えて平和のために力を尽くす人々の働きを結びつける役割を担うこと」を使命とした「平和の手」を立ち上げました。
「平和の手」はその使命を実現するために、「全世界のマスコミに現れない現地の実情をきめ細かく集め、災害や紛争にあった人たちが最も必要としているものは何かということを的確に把握するために、私たち自身ができるだけ現地を訪れ、人と人のつながりを通して血の通った助け合いをしよう」と、信徒の太田道子さんをセンター長にして働き始めました。
しかし「平和の手」は、これまでの大阪教区になかった規模の運動と使命を担っていたため、何年も試行錯誤が続き困難な道の始まりとなりました。
こうした「全教区民が平和を実現する使命を持つ」という大阪教区の歩みは着実に裾野を広げてゆき、1990年には「部落問題と人権を考える『信徒の会』」が発足、1992年には滞日外国人と連帯する「国際協力委員会」が発足しました。
また1993年に立ち上がった「生涯養成コース」も司祭・修道者だけでなく、信徒も加わるなど、それぞれの立場から互いに教会運動を支え合う体制が整い、様々な形の教会運動が活発化しました。
1990年代から大阪教区の外国人信徒数が飛躍的に増えたことを受けて、1993年より「国際協力の日」(現在は「インターナショナルデー」と呼ぶ)を「平和旬間」と並んで教区行事と定め、他宗派と共にエキュメニカルな共生社会を目指す「祭りの日」としました。
≪大阪教区の「平和旬間」≫
1981年、聖ヨハネ・パウロ二世教皇が来日し、広島で「過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことである」と述べられました。
戦争を振り返り、平和を思う時、平和は単なる願望ではなく具体的な行動でなければなりません。
そこで日本のカトリック教会は、その翌年、最も身近で忘れることのできない、広島や長崎の事実を思い起こすのに適した8月6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定めました。
教区、地区、小教区で平和祈願ミサを捧げ、「平和のために何ができるか」を考え、実行する決意の時となっています。
≪阪神・淡路大震災と「新生」≫
大阪教区にとって特筆すべき出来事は、1995年の阪神淡路大震災で被災した経験でした。
大震災を体験した大阪教区は、困っている人、苦しむ人、社会から忘れられている人を思い、大切にしようという人々の願いを実現すべく「新生計画」を打ち立てました。
「新生計画」とは、大阪教区の刷新、すなわち一人ひとりが新しく生きる信仰共同体となるための意識の転換、組織改編、新たな養成を進めることを目的とした運動で、これは大阪教区が、真の福音を宣べ伝える教会となるために、二度にわたる「福音宣教推進全国会議」を通して進めてきた歩みと一致したものでした。
≪福祉委員会から社会活動委員会へ≫
この組織改編の中で大きく発展したのが「社会活動委員会」でした。
カリタス大阪時代より全小教区に存在していた「福祉委員会」を2002年に「社会活動委員会」と改め、地区ごとに定例会を持ち、広く連帯しながら活動してゆくことを目指しました。
≪難民支援活動とシナピス≫
同時に、「人としての権利と尊厳を守る」部門として、既に活動していたカリタス大阪・「正義と平和」・平和の手・国際協力委員会の四組織をひとつにして「シナピス」と改名し、全小教区の社会活動委員会を支える組織として教区本部に事務局を置きました。
21世紀に入り、世界状況が劇的に変わり、中でも紛争や気候変動の影響で移住を余儀なくされる難民が保護を求める相談数は、大阪教区でも多くなりました。
シナピスでは教区内外の協力を得て、シェルターを確保しながら、法律家や各分野のNGOと連帯し、「人を見捨てない」運動を続けています。
こうして社会活動の50年を振り返ると、大阪教区社会活動委員会とシナピスは、「イエスに倣い、イエスの歩んだ道を自らの行動で示してこられた先人の生き方を受け継ぎ、教会内外の「人を大切にする」目的でつながる人々に連帯して、新しい人になる道(刷新運動)を貫いてきたと言えると思います。
この「新しい人となる」という姿勢は、次の50年、100年にも受け継がれ、生かされることを期待します。